嘉南大圳の建設

八田技師夫婦、永遠の青山

八田技師夫婦、永遠の青山

1八田氏一家を迎え、外代樹夫人の悲しみの中の慰め

  1944年(昭和19年)10月、台北地域は米国第58機動艦隊のF6Fヘルキャット戦闘機による空襲を受け、太平洋戦争における日本軍の形勢は不利になっていました。台湾も昼夜を問わず空襲にさらされていました。このような状況下、八田夫人の外代樹は空襲を避けるため、家族全員で烏山頭に避難しました。八田一家が烏山頭に戻ってきたことに対し、八田與一の元部下たちは心からの歓迎を示しました。この温かい迎えは、外代樹夫人にとって悲しみの中での唯一の慰めでした。

追思八田技師的情景

八田與一の追悼情景

追思八田技師的情景

八田與一の追悼情景

追思八田技師的情景

八田與一の追悼情景

2日本の敗戦が外代樹夫人に与えた大きな衝撃

  1945年(昭和20年)5月31日、連合軍は100機以上のボーイングB-24重爆撃機を使い、台北市を大規模に空襲しました。これにより、総督府も壊滅的な被害を受け、市内では民間人の大きな損失と犠牲が発生しました。しかし、烏山頭は非常に静かで、戦争の煙と硝煙の気配を感じるのは、珊瑚潭の上空を飛行機が飛び去る時だけでした。1945年8月15日正午、日本の昭和天皇は「カイロ宣言」および「ポツダム宣言」を受諾し、連合軍に無条件降伏を表明しました。日本の敗戦は、外代樹夫人に大きな衝撃を与えました。彼女は日本本土で幼少期と学業を過ごし、31歳の八田與一と結婚した時、彼女はまだ16歳の少女でした。新婚旅行の後、夫と共に台湾に移り、台湾で8人の子供を育てました。このため、外代樹夫人は台湾を離れることを耐え難く感じていました。

31945年9月1日、外代樹夫人は珊瑚潭放水口で夫に殉じる

  日本の敗戦により、台湾に住んでいた日本人は、留用される者を除き全員が日本に帰還しなければならないこととなりました。この事実は外代樹夫人にとって絶望的であり、彼女は精神的に崩壊しました。この時、学生兵として動員されていた彼女の息子泰雄は部隊の解散により烏山頭に戻ってきました。外代樹夫人は、久しぶりに会う息子を慈しみ、息子の顔が亡き夫八田與一に似ていることに心が締め付けられ、涙をこらえきれませんでした。外代樹夫人の長年にわたる悲しみと耐え難い感情、そして日本に帰るという苦痛は、堰を切ったように溢れ出しました。9月1日の未明、家族が眠る中、彼女は静かに家紋入りの着物を着て、遺書を残して珊瑚潭放水口に向かいました。夫が設計・建設したこの場所で、彼女は夫を追って身を投げ、殉じました。彼女は45歳という若さでその生涯を閉じました。
  翌朝、子供たちは母が残した遺書を見つけ、急いで珊瑚潭の放水口へ向かいました。そこでは、水音が轟き、白い泡が飛び散る中、母の履いていた草履が霧に濡れ、朝露に輝いていました。その時、ちょうど台風が接近していました。この悲報が嘉南水利組合に伝わると、全員が彼女の遺体を捜索しましたが、風雨が激しくなったため一時中断しました。台風が過ぎ去った後、放水口から6キロ下流で外代樹夫人の遺体が発見されました。遺体は火葬され、その一部は日本に送り、一部は烏山頭の八田與一の墓に埋葬されました。

八田技師長男八田晃夫與追思者

八田技師長男八田晃夫と追悼者

日本駐台代表追思八田技師的情景

日本台湾駐在代表が八田技師を追悼する情景

4珊瑚潭は八田與一夫婦の永遠の青山

  八田氏は技師として最高の位である勅任官に任命され、また水利学の権威として「八田ダム」の名を世界の土木史に刻みました。これらは彼の最高の栄誉であり、彼の生涯の努力の結晶でした。しかし、その最後はあまりにも悲劇的でした。大洋丸の沈没によって彼の命は奪われてしまいました。さらに、外代樹夫人も日本の敗戦という暗い影の中で、台湾に住む日本人が全員日本に帰国しなければならないという運命を前に、精神が崩壊し、夫が設計した珊瑚潭放水口で彼を追い殉じました。

  これは偉大な夫婦の人生の最後の章です。

中国にはこんな詩があります:
  「男児志を立てて郷関を出で、学び成らずんば死して還らず。埋骨は何ぞ墳墓の地に限らんや、人間到る処に青山有り。」この詩は、八田與一の生涯を象徴しているかもしれません。彼は日本で生まれ、学びを終えた後、台湾で偉業を成し遂げました。しかし、彼は異国の海で命を落とし、その遺骨は珊瑚潭の「青山」に葬られました。

  珊瑚潭は、八田與一夫婦の「お墓」ではなく、永遠の青山なのです。